どろんこクイズと当たり棒
なんていう名前だったか忘れてしまったけれども
以前、テレビ番組で、こんなのがあった。
2枚のパネルがあって、
出演者は、
全力で走っていって、体当たりして
2枚のうちどちらかのパネルを突き破らなければいけない。
二分の一の選択だ。
一方はふつうに先に進めるけれども、
もう一方は泥だまりにダイブすることになる。
泥だまりに飛び込んだ出演者は、
全身泥だらけになったうえ、
そこでゲームオーバーだ。
つまり、先に進むことができなくなってしまう。
まさに運命の選択、
右側と左側の違いは
天国と地獄くらいの分かれ道なのだ。
進学を運命の別れ道ととらえる人がいる。
A校ならば「当たり」で、B校ならば「はずれ」のようなとらえ方だ。
まさに、先ほどのバラエティ番組のような
極端な2択のようなとらえ方なのだ。
以前はアイスキャンディーの棒にも
当たりがついているものがあって、
当たりの棒を買ったお店に持っていくと
もう一本もらえたりした。
かじってみて
棒の先端が見えた時点で
当たりならば文字が見えている。
見えていなければ外れということだ。
最後まで全部食べなくても当たりとはずれはわかってしまうのだ。
アイスも先ほどのバラエティ番組と同様に、
はじめに「あたり」とか「はずれ」の結論ありきなのだ。
しかし、進学に関しては、はじめに結論ありきではない。
逆なのだ。
終わりに結論ありきなのだ。
イメージするとしたら、
A校に進学するのも、B校に進学するのも
どちらかを選んで、
入口のパネルに体当たりして突き進んでみても
両方ともどろんこにはならないし、先に進む道は続いている。
その時点で、当たりもはずれもない。
そんなものだ。
それでも分類したい人もいるだろう。
勝ち組とか負け組とか、ランキングとか
優劣をつけたりすることが好きな人は多いのだ。
もし、当たりとはずれに分類したいのならば、
せめて卒業時点につけるべきだろう。
自分の過ごしてきた日々が
自分を大いに成長させてくれたと思えるのならば
当たり、正解だ。
反対に、入学後たるんでしまい、
だらだらと過ごしてしまった。
あまり成長したとは言えずに
不完全燃焼のような気持ちで卒業を迎えるのならば、
はずれ、不正解だ。
私は数多くの受験をいっしょにくぐりぬけてきたから分かる。
受験という分かれ道において、
入学時点で
全員が一律に当たりとかはずれとか、
そういった区分はできない。
A校入学者の中で、当たりとはずれに分かれ、
B校入学者の中で、当たりとはずれに分かれるのだ。
しかも、それが判明するのは、入学時点ではなく、もっと後のことなのだ。
繰り返すが、全員が当たりとか、逆に全員がはずれのような学校は存在しない。
先ほど、アイスキャンディーの当たりの棒のことに触れたけれども、
これも名前を忘れてしまったけれども、
当たりの棒にも種類があって、
1本もらえる当たり棒もあれば、
2本もらえる当たり棒もあり、
なんと最大で3本もらえる当たり棒もあるものが存在した。
私は2本だったか複数本の当たりをゲットした記憶がある。
進学をアイスの当たり棒でたとえてみると、
A校入学者も、B校入学者も
入学時点で棒には何も書かれていない。
早くても卒業時点で棒に文字が書かれるのだ。
はずれ、1本当たり、2本当たり、3本当たりのように。
さらに付け加えるならば、
棒にそれらの文字を書くのは、
誰か他人ではなくて、
自分自身が書き込むのだ。
自分が当たりと思えば当たりだし、
はずれと思えばはずれになるのだ。
他人の評価なんて
少しの役にも立たないどころか
害になりさえするのだ。
進学に関していえばそれで間違いがない。
人生の選択はどうだかよくわからない。
私はまだ、人生の半分くらい?しか生きて経験していないから。
でも、自分の今の環境を楽しんで充実させて、
次のステージに進んでいくことが大切なのだとつくづく思う。
最初に答えの分かる選択肢とか
今後もずっと安心できる保障とか
そんなものがあれば
欲しくなる人も多いだろう。
受験における勝ちとか負けとかなんてものは
そういう人たちの作り上げた
幻のようなものなのだ。
大切なのは
進学においては
入学後の自分が過ごしてきた道のりが
良し悪しのすべてを決めるという
ことを知っておくことだと思う。