道具
物に恵まれている今の子どもたちは
想像するのも難しいかもしれないが、
野球ボール1つでさえ、
手に入らないほどの物不足のときがあったという。
ミスタージャイアンツ長嶋茂雄さんが
野球を始めたのは終戦の年だった。
物がない時代で、
母親と一緒に、
サトイモの皮やビー玉に布を巻いて、
ボールをこしらえたという。
かつて、テレビの対談番組で語っていた。
では、
野球ボールがなかったことが不幸なことで、
野球ボールがあることが幸せなことなのだろうか。
私はそうではないと思う。
長嶋氏が母と一緒にボールを作る場面、
そのボールを使って野球をしている場面を想像してみる。
するとどうだろうか。
長嶋少年は活き活きと、とても楽しそうにしている様子が
脳裏に浮かんでくるのだ。
先日、大学受験生が何人か自習をしていた。
英単語を覚えるときに、
ある子は最新のスマホアプリを使って
覚えていた。
別の子は昔ながらの単語カードを使っていた。
単語カードがいつから使われ始めたのかは分からない。
少なくとも私の親世代のころから使われていることは確かだ。
そんな昔に、スマホアプリで学習するなど
誰が想像できただろうか。
では、そんな便利な道具がある現在の受験生たちの
語彙力や学力は上がっているのだろうか。
先ほどの少年たちのケースで言うならば、
アプリを使っている少年よりも
単語カードを使っている少年のほうが成績が良い。
どんなに時が流れて
どんなに便利な世の中になっても
モノ自体が人を成長させることはないし、
幸せにすることはないと思う。
すべては使い手次第なのだということを
過ぎ去りし日の長嶋少年や
単語カードの少年は教えてくれる。
手垢でうす汚れた単語カード
使い込んで膨らんだ辞書や教科書などには
何か使い手の気迫のようなものが
宿っているような気がするのは私だけだろうか。
さて、話は変わって結婚の話。
政府がピッタリの相手をAIをつかって
探してくれるだって。
アリー・コンディ作のカッシアの物語という
傑作ディストピア物語を思い出した。