銀杏並木
昨日同様、本日も寒い。
うちの塾の空調も、自動設定にしていると
暖房がかかる。
つい数日前は半そでがちょうどよかったのだから、
本格的な秋の到来はまだ少し先だろう。
でも、長袖の服をもう少し出して、
秋の準備をしておこうと思う。
さて、下の画像を見てもらいたい。
でも、落ち葉と銀杏の臭いで
並木に面した家は大変だ。
だから、紅葉前のこの時期に
上の画像の地域では
銀杏の葉っぱを全部落としてしまうそうだ。
当然、紅葉(黄葉)も銀杏拾いも楽しむことはできない。
遠くに住んでいる人は
嫌がるだろうけれど、
近所の人は歓迎しているそうだ。
現代的な問題を象徴している話だ。
さて、落葉と言えば、
“木の葉が落ちてから、芽が出るのではない。
下から芽が出る勢いにこらえきれず、
木の葉は落ちるのだ”
吉田兼好は『徒然草』に記した。
そう考えれば、
哀愁漂う秋も、
また違って見えてくる。
チェコの作家カレル・チャペックも、
木が秋に裸になるのは、
枝々に、
爆音とともに躍り出る春をつくっているからだと言った。
そして、
視線を地上でなく、
根の伸びる地下へと向けた。
「自然はワイシャツの袖をまくり上げて、
下にむかって育っているのだ。
両手に唾をつけて、
いっしょうけんめい土を掘っているのだ」
四季は巡る。
その地球の律動に思いを寄せ、
自身のことや人生を重ねてみれば、
冬とは
休息や“死”の時というより、
芽を育み、
根を伸ばし、
次の成長へ出発する準備の時なのだ。
そう信じる人の心には、
もう春が来ているとさえ言える。
冬は必ず春となる。
夏はもう終わった。
春は待つもののではない。
冬を春へと変えゆく人べく、
いまこそ、しっかりと大地に根を張り巡らせるための行動する時なのだ。
春に花を咲かせる人とは、
花の艶やかさ、
葉の青さを支える「根」の尊さを知る人なのだから。