感性
辻本塾の近所の小学校は学校のプールを使わない。
近所のスイミングスクールに行って
水泳の授業を受ける。
私は水泳の授業が嫌いだった。
泳げなかったから。
でも、スイミングスクールだったら
違っていたのかな。
さて、プールといえば
廃止論を主張する人もいる。
その人たちは
「泳げなくても困らない」
「ライフジャケット着ていれば溺れない」
と主張する。
たしかにその通りだ。
では、学校で水泳はしなくてもよいのかというと
話は別だ。
考えてみると
学校では
できなくても困らないことばかり習っている。
跳び箱だって
リコーダーだって
習字だって
裁縫だって
彫刻刀だって
歴史だって
リトマス紙だってそうだ。
それらは生きていく上で必要とは言えない
しかし、上に書いたすべてのことは
子どもたちの可能性を広げるためにあるのではないだろうか。
だれがどんなことに才能を発揮するかわからないし
どの経験が何につながるかわからない。
ジョブズの受けたカリグラフィーの授業と
macのフォントがつながることなどは
だれにもわからないのだ。
スキルや知識ではないものを私たちは測定できない。
しかし、人間の本当の感性はこの測定できないなにかからやってくる。
つまり泳げること自体の意味もさることながら、
水につかる、泳げるようにするまでのプロセスに
なにかがあるってことなのだ。
人からスキルと知識と肩書きを抜いたら、
いったいなにがのこるのだろうか。
それは、人生の中で身につけた感性ではないだろうか。