待つということ
エレベーター30秒、
パソコンの起動1分、
レジ3分、
通勤電車の遅れ5分、
メールの返信30分、
病院の診察30分……
何だかわかるだろうか?
今から15年前、
時計メーカーがアンケートをした。
「どのくらい待たされるとイライラしますか」と尋ねて、
一番多かった回答だ。
15年経過して、さらに世の中が便利になった。
「待たないですむ社会」に近づいたのだろうか、
今後、人はますます「待てない」ようになっていくのだろうか。
上記のエレベーターやパソコン、レジなどは
今も昔も、待つ時間の長さが違うだけであり
待てばエレベーターはやってくる、
パソコンも起動する、
レジの順番もやってくる。
でも、受験や学力向上はそうではない。
時間の経過が
目的を達成させるわけではないからだ。
パソコンの起動のように
技術の進歩だけで解決できないものなのだ。
AI学習アプリを導入している学校の生徒が言っていた。
「紙のワークの方がいい・・・・・」
タブレットで学習している小学生が言っていた。
「もう飽きた・・・・・」
折角の便利な道具も使いようなのだ。
太宰治の「走れメロス」は、
自分を待つ友のために
命がけで走る「メロス」と、
人を信じられない孤独な王「ディオニス」との物語を通して、
信頼の大切さとともに
「待つこと」を描いた名作だ。
走るメロスの描写は、泥臭くも、この上なく美しい。
学力向上も
悩み、苦しみ、もがき、
あきらめかけながらも
なんとか達成するものだと私は思う。
そこに必要なのは
機械ではなく
信頼できる先生や仲間だろう。
そして自分を信じて「待つ」勇気だ。
世の中がどれだけ便利になろうとも
変わらないこともある。
私はそう思う。