今いる場所で
「鍋洗いひとつみれば、
その人の人格がわかる。
技術は人格の上に成り立つ者だから、
あいつだったら間違いない」
元帝国ホテル村上総料理長三國清三は、18歳のとき津軽海峡を渡った。
たった一通の紹介状だけが頼りだった。
札幌グランドホテルの斉藤シェフから、故元帝国ホテル村上総料理長への紹介状。
何も持っていなかった。
お金も知り合いも何もない中、
ひとりで、北海道の増毛から東京に向かった。
初めて見る帝国ホテル。
その荘厳で圧倒的な存在感に体がふるえる。
そしていよいよ、神様との対面だ。
総料理長室は、厨房のすぐ隣にあった。
緊張してドアを開ける。
故村上信夫。
神様と言われた男。
どんなひとだろう。
ニコニコしていた。
「聞いてるよ」優しい声だった。
「一週間したら、また来なさい」
あっという間に会見は終わった。
村上氏は、決して体の大きいひとではない。
でも、とてつもなく大きく見えた。
初日の日村上総料理長から「鍋でも洗ってもらおうか」と言われた。
三國清三氏は、必死で働いた。
来る日も来る日も”鍋洗い”だけど
徹底的に鍋の取っ手のネジまで外してきれいに磨きあげたそうだ。
当時はオイルショック。
不況の中、帝国ホテルの正社員希望者は多く、
彼の順番は24番目。
23人のひとが採用されてから、やっと順番が来る。
村上総料理長が『きょうの料理』という番組の収録をするすぐ横の洗い場で、
彼はひたすら鍋を洗った。
味を覚えたかった。
なんとか先輩の味を盗みたかった。
だから、鍋を洗う前に、残ったタレやスープをなめた。
盗まれるのを嫌がりそうな先輩には、
いちばん忙しいときにキレイな鍋をサッと渡して瞬時になめた。
ひとは教わったことは忘れる。
でも、自分でつかみとったものは忘れない。
「二年、鍋洗いに徹した」
決して手を抜くことはなかった。この先を信じて。
中途採用がちょうど23番目で打ち切りになったのだ。
彼は24番。この皮肉な現実に愕然とした。
「ああ、もう増毛に帰ろう」そう思った。
ただ最後に、思い残すことがないよう、
帝国ホテル”18のレストラン全ての鍋をピカピカにしたい、そう考えて実行した。”
そんなとき、村上総料理長に呼ばれた。
「ああ、ついに来たな。クビかあ・・・」
そう思って、部屋に入ると、いきなりこう言われた。
「社長からねえ、600人の従業員の中で、
いちばん腕がよくて、いちばん根性のあるひとを、
スイスジュネーブの日本大使館の料理長に推薦してくださいって頼まれた。
すぐに準備しなさい」
え?それは相談でも提案でもなく命令だった。
周囲の人は全て反対した。
そのとき村上総料理長は、
「鍋洗いひとつみれば、
その人の人格がわかる。
技術は人格の上に成り立つ者だから、
あいつだったら間違いない」と押し切ったのだ。
なぜかといえば・・・・・・
この村上総料理長は、厨房から初めて帝国ホテルの重役になった唯一の人。
10代の時に、帝国ホテルの厨房に入ってからは、
3年間、仕事が鍋磨きのみだったという。
一切、料理に触れることが許されなかった。
3年間、鍋磨きだけで、全く料理も教えてもらえず、
何人もの少年が入ってきても、
1年以内にほとんどの人が辞めていってしまった。
その中で村上氏だけは、辞めなかった。
日本一の鍋磨きになろうと決意をして、
3年間、鍋をピカピカに磨くことにしたのだ。
当時の鍋は、銅製で磨けば磨くほどきれいになったそうだ。
それを自分の顔が映る位、ピカピカに磨いた。
そして、数ヶ月経ったところで、
「今日の鍋磨きは誰だ?」と先輩が聞くようになったそうだ。
それから、いつもならソースの味が分からないように、
洗剤が入った状態で来るのだそうでだが、
その時からは洗剤が入っていない状態で、
鍋が回ってくるようになったという。
村上氏は、それを舐めて隠し味を勉強するようになり、
立派な料理人になった。
鍋磨きという仕事を与えたときに、
鍋磨きをとことん徹底的にすることで、見込まれる。
今、置かれている状況に文句を言わずに、
黙々とやっている人に神様は微笑む。
それを自らの経験で知っていたからこそ
反対を押し切ったのだった。
料理の世界だけではない、
いろいろな世界で通用する成功法だと言えよう。