自分が源泉

「どうして起こしてくれなかったの!」

 

寝坊してしまったときに

 

親に対してこんなセリフを吐く人がいます。

 

 

 

 

寝坊した時に

 

「自分が起きることができなかった」と、まず自分が責任を感じる人は、

 

ゆくゆく大きな成功を収める可能性がある。

 

自分のせいだと思えば、

 

次から目覚ましのセットなど事前の準備を欠かさないようになり、

 

そうすれば、

 

意識も働き、同じ過ちはなくなるからだ。

 

 

反対に、「起こしてくれなかった親が悪い」と責めるばかりの人は、

 

その先も、繰り返し同じ失敗を繰り返す可能性が高い。

 

責任を自分に求めないために、

 

先手を打っておくという発想ができないからだ。

 

 

 

 

失敗は誰にでもある。

 

しかし、それをいくら嘆いてみたところで、

 

しくじってしまったことに変わりない。

 

「相手がいけない」と言っても、自分の成長はないのだ。

 

ならば、たとえ相手が悪かったとしても、

 

「自分でそれを防ぐことはできなかったのか」

 

と考えたほうがよほど建設的ではないか。

 

だから、つまずいたり、運の悪い状況に陥ったときには、

 

常にそのあらゆる原因を自分に引き寄せて、

 

自分でなんとかできたはずだと考えてみることが大切である。

 

 

 

幸田露伴は、こんなことを言っている。

 

「成功した人と成功しない人を見ると、

 

成功した人は失敗した原因を自分に求める。

 

悪い運を引いたのは自分の手であると考えるから、

 

その手は血にまみれている。

 

ところが、失敗ばかりしている人は、手が痛むようなことをせず、手がきれいだ」

 

 

けっして他人のせいにせず、自分の責任で運命の糸を引く人の手は、痛み、血だらけになっている。

 

何かにしくじるたびに、自分で何か打つ手がなかったのだろうかと、痛いほど自己を省みる。

 

 

しかし、あらゆる失敗を人のせいにして知らん顔をしているような人は、手から一滴の血も流していない。

 

失敗を自分の責任として捉えず、自らの責任において運命の糸を引いていないのだから、痛いはずがないのだ。

 

どちらがより成功に近いかは、言わずもがなであろう。

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