育つもの

吉川英治の本にこんなことが書いてある。

 

育つものを見るのは気もちがいい。ぼくは、育つものが好きである。

 

友人達が骨董談に耽けっている中で、

 

舟橋聖一氏ひとりは「ぼくは生きてるものが好きだ」と云ったそうだが、

 

ぼくは骨董も嫌いではないが、

 

より以上に、育つものが好きである。

 

だから季節的には、五月はもっとも自分の生理に適している。

 

芍薬の新芽が土を割って真っ赤なキバを地表にあらわしたり、

 

孟宗竹の筍が朝な朝な伸びつつあるのを見たりすると、

 

自分の生命にまで影響があるかのようで何か楽しい。

 

 

私は骨董に興味がない。

 

そこにあまり「育ち」を感じないことが理由なんだということに気付かされた。

 

 

 

 

もう田植えの時期だ。

 

田んぼに新たな稲が育ちつつあるのを見ると、

 

何だか嬉しい気持ちになる。

 

逆に稲が刈り取られた後の冬田は寂しさを感じる。

 

 

 

人間のばあいにしてもそうである。

 

「もう育ちはない」と思われる人と対坐していると、

 

堪らない退屈が座間にただよい、

 

こっちも、やりきれないものに鬱してしまう。

 

育つ人、育ちのない人の差は、あながち年齢には依らないようだ。

 

若い見事な筋肉の持主にでも、

 

五分間で、欠伸をおぼえることもあるし、

 

老いすがれて見えながら、

 

なお対者に、ゆたかな生命のひろがりを覚えさせる客もある。

 

吉川英治が言うように、

 

「育つ」「育たない」は年齢によるものではない。

 

その差が何によるかははっきりと書かれていないが、

 

その人の持つ生命力といったものによって規定されるのだろうか。

 

何かに向かう意志、生命力が人に「育ち」をもたらすのだと思う。

 

私の仕事は、まさに「育つもの」が相手であり、その手伝いをすることだ。

 

とてもありがたいことだ。

 

 

 

ただ然し、人間には天寿があった、と知るとき、

 

育つものをなお持つ生命には、

 

たまらない、いじらしさと愛惜がわく。

 

詩を謳って無情を叙べるしか

 

間には解決の方法がない。

 

ここは吉川英治らしい、そして人の心の琴線に触れる部分だろう。

 

どんなに育つものでも、いつかはその終わりを迎えねばならない。

 

終わりを意識できるからこそ、今精一杯育つことができる。

 

逆に終わりが意識できなければ

 

人生はダラダラしたものとなってしまうだろう。

 

人生は儚く、希望に満ちている。

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