塾の役割

塾の仕事を「教育」という言葉を使って分類する人がいる。

 

これには違和感を感じる。

 

 

 

 

私は、塾は目的ありきの場所であり、教育の場ではないと考えている。

 

教育とは子どもありきの営みだからだ。

 

塾でやっていることとは、スタート地点が真逆なのである。

 

教育とは、どんな木になるのかわからない種を育てるようなものだ。

 

育った結果、サクラであったり、ヒノキであったり、ユズであったりする。

 

花で人々に感動を与える木もあれば、建物の柱となりしっかりと支えていく木もあるし、

 

その実を人々に役立ててもらう木もあるだろう。

 

 

 

 

しかし、受験においては、最初から目的ありきなのだ。

 

何とかして受験校に合格することだけを目的としているのだ。

 

木でたとえるならば、

 

受験という関門を突破するための

 

攻城兵器になりうる、丈夫で強い木を育てることが目的だ。

 

↓こんな感じ。

戦国時代の功城兵器

これは教育ではない。

 

受験も選抜方法が多様化しているが、

 

その中のどれかを選んで挑戦するわけであり、

 

受験に突破するという限定された目的を実現するための

 

ひとつのスキルを育成しているだけなのだ。

 

 

 

福澤諭吉は「文明教育論」の中で、次のようなことを述べている。

 

「世界万物についての知識を完全に教えることなどできないが、

 

未知なる状況に接しても狼狽することなく、

 

道理を見極めて対処する能力を発育することならできる。

 

学校はそれこそをすべきところであり、

 

ものを教える場所ではない。

 

だからそもそも『教育』という文字は妥当ではない。

 

『発育』と称するべきである」。

 

 

 

 

 

 

 

educationという英単語に「教え育てる」という意味の「教育」の訳語をあてたのは

 

初代文部大臣・森有礼だと言われている。

学校誕生 森 有礼(もり ありのり) : 横浜村塾 by 愛の情報参謀

この写真を見ると、くりーむしちゅーっていう芸人を思い出す。

 

それはさておき、

 

富国強兵政策のもと、欧米列強に肩を並べるために、

 

国が主体となって国民に「教育を与える」しくみをつくり、

 

国家に貢献する「人材育成」を進める原動力になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

時は流れ、今は令和時代だ。

 

しかし、教育の概念は明治のままの人が多いと思う。

 

教える側が主体となるのではなく、

 

学ぶ側が主体となるあり方への転換が必要だ。

 

 

 

 

本当の意味での教育がなされたうえでの、

 

受験突破のようなスキル育成であるのならば

 

問題ないのだが、

 

教育がなされていないならば、

 

受験の合格者も不合格者もそこから先には進むことが困難になる。

 

受験という一点だけを見続けてきたのだから仕方のないことだ。

 

受験前は、未来が受験であり、

 

受験後も、過去の体験である受験から離れることができなくなる。

 

受験への思いが強ければ強いほど、たちが悪い。

 

長期間にわたり「燃え尽き症候群」になりかねない。

 

 

 

 

私は、学校や家庭は、教育の場であり、

 

塾は、一つのスキルに特化した場であるべきだと思う。

 

うちの塾の生徒と保護者に方々には

 

それを理解してもらいたい。

 

そして、世の中で

 

自分らしく豊かに生きていく

 

そのための人生設計を

 

受験という点から

 

生徒と保護者といっしょに考えていく

 

サポートをしていきたい。

 

 

 

 

 

さて、話題は変わってニュースの話。

 

東大の新執行部は女性が過半数だって。

 

今後の変化を期待したい。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG012JO0R00C21A3000000/?fbclid=IwAR3BXRUPsq3lII8Ale_Y5vDfO3PCHuaDLuh0Vk00Ej1m7g0WwrHLYg5YPks

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