教え惜しみ

教育は学校で始まったものではありません。

 

昔の私塾や道場ではじまったものです。

 

そして、そこでは

 

入門してもすぐに教えたりはしませんでした。

 

むしろ、教えることを拒みました。

 

剣の修行をしようと思っている若者に、

 

毎日、薪割りをさせ、

 

水くみをさせました。

 

なぜ、教えてくれないのか、

 

当然、不満をいだきます。

 

これが実は学習意欲を高める役をしたのです。

 

このことをかつての教育者は心得ていたので、

 

あえて教え惜しみをしたわけです。

 

じらせた後で、やっと教え始めます。

 

といっても本当のところはなかなか教えません。

 

秘術は秘すのです。

 

弟子は教えてもらうことをあきらめて、

 

なんとか師匠のもてるものを盗もうとします。

 

そして、いつのまにか、

 

自分で新しい知識、情報を習得する力を持つようになるのです。

 

昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を

 

積極的なものにすることに成功していたのです。

 

 

 

それに比べると、

 

いまは、教える側が積極的でありすぎる、

 

親切でありすぎる、

 

口を開けていれば、

 

ほしいものを口まで運んでもらえるといった

 

依存心を育ててしまいます。

 

皮肉なことに、

 

熱心になればなるほど

 

学習者を受け身にしてしまいます。

 

 

 

詰め込み教育が悪いわけではないでしょう。

 

意欲をそぐ詰め込みが悪いのです。

 

学習したい気持ちが強ければ、

 

いくらでも知識を求め歓迎し、

 

いくらでも詰め込んでほしいと願います。

 

 

 

 

幼い頃、ポケモンやウルトラマンなどを全部覚えた、

 

などの経験がある人は、

 

誰かから詰め込み教育されたわけではないでしょう。

 

自分から、熱心に、新しい知識や情報を吸収したはずです。

 

夢中になって、気がついたら全部覚えていたことでしょう。

 

全部覚えてしまっても、

 

まだもっともっと知りたいという気持ちが起こります。

 

その積極性や意欲から生まれる学習効果は、

 

たとえるならば、

 

「砂が水を吸い込むように」

 

知識を吸収していったことでしょう。

 

 

大切なのは

 

やらされていると感じるのではなく

 

自らが強く求めてやっているという

 

圧倒的な当事者意識を持てるかということ。

 

 

 

私塾であれ道場であれ

 

良し悪しを決めるのは

 

門下生に

 

成長したいと強く思わせることができるかどうかである。

 

 

これは現代も同じだと私は思っている。

 

 

 

 

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