ゼロになること
湊かなえさんの小説を読んでいて
ふと思ったことがある。
場面はこんな感じだった。
不登校の生徒が意を決して
学校に行った。
担任の先生はその姿を見て
うれし涙を流して喜ぶという場面だ。
違和感の原因は
その担任が図らずとも
生徒が不登校になることを止めるどころか
さらに傷つけてしまう言動をしたことでもなかったし
不登校の間、ほとんど生徒に
何もしてあげられなかったことでもなかった。
中学生が登校するのは当たり前のことだ。
マイナスからゼロになっただけ。
それにうれし涙を流すのならば
毎日登校して
少しずつ成長し
ゼロからプラスに転じたときには
どれだけの喜びが湧き上がってくるのだろうか。
いや、一粒の涙すら流さないのではないだろうか
この先生は。
明日から
登校し続けられるように
何かしてくれるのだろうか。
いや、何もやらないだろう。
日々、登校姿を見るたびに喜んでもくれないだろう。
恐らく違和感の原因は
そのような人物として
描かれていたように感じたからだと思う。
意を決して登校したその日
学校が近づくにつれて
足が重くなっていたとあった。
だけど
勇気を振り絞って
教室の中に入っていったのだ。
ものすごいストレスを感じたに違いない。
だから
明日は逃げ出してしまうかもしれない。
明日逃げなくても
明後日は大丈夫かどうかわからない。
長い目で見るならば
本当に大変なのはここからなのだ。
これと同じような違和感を
受験で感じることもある。
受験の合格と
不登校では
そもそも全く違うことなのだけれども。
合格とは
その学校でスタートラインに立つ権利を
許可されることだとすると
合格するだけではゼロを意味するに過ぎないのだ。
確かに
それまでの道のりの様々な想いがあるだろう。
一つの節目であるから
こみあげてくるものもあるかもしれない。
けれども
こんなときこそ
いや
こんな時だからこそ
まだゼロに過ぎないのだということを
忘れてはいけないのだ。
ゼロをプラスにするのは
とても大変なことなのだから。
合格までの道のりは
決して楽ではなかっただろう。
でも本当に大変なのは入学後なのだ。
今までの何倍も大変なのだから。
先生ならばそれが分かっている。
入試が終わった後の余韻に浸る受験生に
あえてそのことを伝えてあげるべきではないだろうか。
あの先生のように
涙を流すようなことなどせずに。
私の指導はここまでですよ
これから先は知りませんよ
というのならば
いっしょに盛り上がってあげればいいだろう。
天邪鬼なのだろうか
でも、私はそう思う。