忙しいということ
昔、日本では「忙しい」のが価値あることだった。
その時代、みんなにそれは当たり前のことのように思われていた。
だから「忙しい」ように見えるように、多くの人びとは生きていた。
栄養ドリンクのCMソングで、
「24時間戦えますか?」という歌詞があった。
覚えている人もいるだろうか、あのメロディ。
今から考えると、ブラックとかグレーとかいうレベルではない。
他にもCMやテレビドラマなどでも、ヘリコプターで飛んでいって
外国の要人と会うというような人が、「イケてる人」の象徴になっていた。
みんなとにかく「忙しそう」という雰囲気を演出していた。
さて、今、改めて当時を振り返ってみると
不思議に思えてくることがいくつも出てくる。
「24時間戦えますか?」の、その24時間の中身だ。
そのウルトラビジネスマンは、いったい何を毎日していたのだろうか?
テレビドラマなどでは「接待で帰りは遅くなる」とか
「日曜日は接待でゴルフだ」とかそんなセリフが多かったと思う。
テレビ番組だから誇張した表現だったのかもしれない。
とにかく「お得意さま」を機嫌よくさせることが、
忙しさの原因となる主なお仕事であったのだろう。
深夜に呼び出されたて、すぐにその場に向かうだとか、
明朝までに仕事の資料をまとめるだとか、
そういうことにも、ずいぶん時間も労力もかけているようだった。
今考えてみると、その当時の働き方には「生産性」はあまり考慮されてないと思う。
今の若い世代の働き手や就職活動をしている学生たちからみると
当時の働き方は異様なものに見えるはずだ。
「忙しい」ことに価値があるのだから、
忙しくない状態を作り出すという発想自体がダメなことなのだ。
今の小中学生が社会人になるころ、
昔はこんな時代もあったということを知ったら
どんな反応をするのだろうか。
さて、小学生も中学生も日々いろんなことをしている。
習い事や部活動などなど。
そして、限られた時間の中で家庭学習をしている。
毎日やるということは誰にでもできることではないし、
学習習慣は非常に大事なことだ。
学習習慣をつけることこそが成績向上の最初のカベだと私は思っているくらいだ。
でも、時々、学習においても「忙しい」ということに価値があると考えている人がいる。
そんな人は、忙しくやってはいるのだが、効率が悪く、成果が表れにくいのだ。
忙しいのに頑張っていますという思いが殊更強い。
だから、自分ではどうすることもできないと考えてしまうことも多い。
そんな時にできることは2つだけだ。
一つは、やることを少なくすること。
優先順位を考えて何かを減らせばいい。
もう一つは、動き方や時間の使い方を一から見直すこと。
「忙しい」ということだけでは価値はないのだ。
勉強のビギナーであるならば、
毎日勉強すること自体が褒められるべきことであったのだろう。
しかも、多くのことをやりながら学習時間を確保しているならばなおさらだ。
でも、厳しい言い方をすれば、結果を出さなければ意味がない。
次のステージでは生産性を向上させるしかないのだ。
うちの塾にも、ここのカベに当たっている生徒がいる。
唯一の正解はない。
試行錯誤を重ね、生産性を向上させていくことだ。
悩みながら行動する日々こそが答えになるのだから。