待つということ
かつて「待つ」ことはありふれたことだった。
1時間に1台の列車を待つ。
数日後の手紙の返事を待つ。
万葉集や古今和歌集など、待ち遠しさを歌うことが定番の歌謡の手管があった。
それが現代はあらゆる面で“待たなくてよい社会”になった。
待ち合わせに遅れそうになれば、
スマホで連絡がとれる。
おなかにいるわが子の性別や遺伝子情報も出生前には判明する。
その一方で、物事を長い目で見る余裕がなくなり、
結果が出ないとすぐに別のやり方を追い求める傾向も。
現代は「待つことができない社会」になったとも言えるだろう。
しかし生活の中で、待つことが必要な場合は少なくない。
子育てはその一つだ。
平均的な母親で1日に40回も「早く!」と、わが子に言っているそうだ。
ぐっと言葉を飲み込み、待ってあげることが、子どもの成長につながる場合がある。
学習も同じだ。
早く成績を上げたいと思う気持ちはよくわかる。
しかし本当の学力は一朝一夕には身につかない。
いや、それは生涯をかけて身につけていくようなものなのだ。
筋トレと同じで
やっているうちは筋肉の維持や増強ができるように
学習も
やっているうちは学力の維持や向上ができる。
しかし、筋トレも学習もやらなくなったとたん
今までの成果がどんどん失われていくのだ。
だから筋トレも学習も
すぐに完成させるものというよりも
果てしない先にある理想の姿を想い
取り組みを続け、待ち続けるものではないだろうか。
「待つ」ことは、必ずしも受け身なのではない。
相手を信じること。変わるための力になろうと励ましを送り続けること。
自分を信じること。必ず変わると心に定め、本気でやり続けること。
それもまた「待つ」ということだ。
人を育て、自分が育つための要諦である。