宿根草と一年草
多年草とは、数年に渡って枯れず、
毎年花を咲かせる植物の総称だ。
宿根草も多年草に含まれるが、
多年草の中でも根だけが残り、
生育期が終わると地上部が枯れてしまうものを宿根草と呼び区別する。
ただ、原産地では宿根草、多年草であっても
日本の気候に合わず、
1年で枯れてしまうこともあるので注意が必要だ。
受験で志望校に合格することを「サクラサク」のように花で例えることがある。
さて、この場合の花は多年草だろうか
それとも一年草であろうか。
いろいろな考え方があるだろうが、
私は、一年草であるべきだと考えている。
花を咲かすために、
相応の手間と時間をかけてきた受験生からすると
一度咲いたのだから
ずっと咲き続けてほしいと思う気持ちはよくわかる。
つまり、多年草であってほしいということだ。
でも、高校入学後には今までとは全く別の環境に行くことになる。
春が終われば、花も散ってしまう。
そこで、もう一度種をまき、手間暇をかけて
高校という新しい場所で花を咲かせなければいけないのだ。
中学校で咲かせた花にこだわっていては、
いつまでも進歩がないからだ。
さらに言えば、
次の花を育てる難易度は
前回よりも数段上がっているのだ。
花が咲いたら、
その美しさに見とれて
感動し、
ずっと余韻に浸っていたくなるかもしれない。
でも、
花が咲いたその時にこそ
次の花の種をまかなければいけないのだ。
種にも蒔き時がある。
いつでもよいというわけではない。
できるだけ早いほうがいい。
一番よいのは、花が咲いている間だ。
人生はこれの繰り返しではなかろうか。
花が咲いたら、次の花の種を蒔き、育て始める。
つまり、何事も、一年草のようなものなのである。
人間であれ塾であれ
多年草でありたいと願う人は多い。
一度咲いた花なのだから、もういちど咲いてほしいと願う。
先輩たちの見事な合格状況を下級生たちに話したときに
ある生徒から言われた言葉が印象的だ。
「先輩の合格実績は、僕たちには関係のないことです。」
その通りだ。
先輩たちの咲かせた花と、後輩たちが今後咲かせる花は全くの別物なのだ。
種をまいたり、肥料をあげたり、かける手間も違うのだ。
花を咲かせたら
余韻に浸っていたくなるのは
合格した本人だけでなく
指導者だって同じなのだと悟った。
でも、浸っていても
次の花は自動的に咲いてくれない。
「当たり年」とか「外れ年」という言葉を使う指導者がいる。
優秀な生徒が多ければ当たり年、そうでなければ外れ年というわけだ。
これも多年草的な考え方からくるものだ。
一度花が咲いたことがあれば
勘違いするのだろう。
次も咲くだろうと。
もし咲かなければ、
それは指導者である自分以外に悪い原因があるからだ
と考えてしまうのだろう。
実際に、合格で咲く花が、一年草なのか多年草なのか
どちらであるのかはわからないことだ。
その解釈はその人次第であるのだろう。
ただ、繰り返すが、
私はこの花は一年草であるべきだと思っている。
そして、そのような思いで
一年、そしてまた一年と積み重ねていくのが
やがて伝統と呼ばれるものになるのだろう。
伝統となると、
それこそ多年草ではないかと思う人もいるだろう。
でも、もし多年草であったとしても、
相当の手入れがなければ、
多年草だって次に花を咲かせることはないのだ。
新年度がもうすぐ始まる。
今までの一年間を振り返ってみる。
そして、一年後の自分の成長した姿を想像してみる。
そして、ココロの中で叫ぶのだ。
自分が一年後にその姿になってみせるのだと。
そうすることが「種蒔き」なのだ。
そして、一年かけて大事に育て上げていくのだ。
一年後に咲かせるであろう花を想像しながら。
始まりの春が、もうすぐやってくる。
さて、話は変わって、GIGAスクール構想の話。
一人一台タブレットはうちの小学生たちは
キーボードのついたアイパッドのようだ。
全校配備されているとのこと。
先生からは、
学校でしか使えない設定にしてある、
五万円くらいするので、大事に使うこと、
学習に関係ないサイトを見たりすると
厳しく注意される、
などと言われているようだ。
この発言を受けて、本当に持ち帰りを検討するのかな。