板書について考える

昨日の中学生の授業で

 

「ノートをとって、安心してはだめ」

 

ってアドバイスをした。

 

大事なことをてきぱきとノートにとる。

 

それだけで勉強した気になってしまうのだ。

 

それではかしこいノートができあがるだけで

 

自分はちっともかしこくならないのだ。

 

 

 

 

ソクラテスは語った。

 

文字に頼ると、人は忘れっぽくなる。

 

「自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである」と。

 

人は、大事なことを「メモ」に記す。

 

しかし、それで安心し、

 

読み返すことをしない。

 

だから、肝心なとき、役に立たない。

 

自らの「心」に刻む。

 

その努力は、やはりいつの時代にも欠かせまい

 

 

 

 

そういえば、

 

かつて

 

同じようなアドバイスをしたときに、

 

「じゃあ、ぼくはノートをとりません。」って

 

宣言して、

 

その場で覚えることに全力を注いだ生徒がいた。

 

そうすると

 

その場でアタマに刻むしかない。

 

もう、背水の陣だ。

 

だからだろうか、

 

めきめきと力をつけ、

 

その生徒は早慶の附属校に合格していった。

 

でも、私は知っている。

 

彼がときどきメモを取っていたことを。

 

でも、

 

それって本当の本当に必要だって

 

自分で判断できた情報だから

 

メモを取っていたんだろう。

 

何でもかんでも

 

ノートに書き写して

 

一生懸命勉強した気になっている

 

そんな生徒よりも

 

はるかに効率の良い勉強ではないだろうか。

 

うちの塾では

 

そういう理由であれば

 

ノートをとらなくても

 

注意したりすることはない。

 

むしろ褒めたいとおもう。

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