今を生きる

400mハードルの日本記録保持者の為末大氏が

 

オリンピック選手へ送った応援メッセージを読んで、

 

とても感動したので紹介したい。

 

 

 

『私の競技人生で最も大きく深い理解を得たのは

 

2008年の北京五輪の日本選手権の数週間前でした。

 

その年は春先に肉離れをしてしまい

 

必死でリハビリをするというシーズンでした。

 

日本選手権の数週間前になって

 

ようやく少し練習ができてきたという矢先、

 

再び逆脚を肉離れしてしまいました。

 

陸上競技をやったことがある方はよくお分かりだと思うのですが

 

試合の6週間前の怪我はかなり厳しいです。

 

私もその時は、ああもう無理かもしれないと思いました。

 

最後の五輪だと当時は決めていましたから、

 

何でこのタイミングで、しかもなぜ私なんだと思いました。

 

周りの選手見てると元気そうに走っていて、

 

それが本当に羨ましくてやるせない。

 

私は一生懸命やってきたつもりなのにどうしてだ。

 

不公平じゃないか。

 

もし怪我が治らなくて代表に入れなかったら何が起きるんだろう。

 

周りの期待してくれた人たちはきっとがっかりするだろう。

 

世間から批判の声もあるかもしれない。

 

これから先の人生でずっと私は最後の瞬間でうまくいかなかったことを後悔しながら生きてくのだろうか。

 

あの時の練習をやらなければよかったのか。

 

どうしてちょっと無理をして練習してしまったんだろうか。

 

そんな感じのことずっとぐるぐるぐるぐる考えていました。

 

その日練習していたのは赤羽の国立科学センターでした。

 

グラウンドに坂のコースがあるのですが、

 

怪我のリハビリのためにそこをゆっくり登っては下りてを繰り返していました。

 

その日グラウンドには誰もいませんでした。

何度か登り降りを繰り返していて、

 

本当にある瞬間に急に周りの音が消えて「ああそうなんだ」と強烈に腑に落ちました。

 

そして、鳥の声がまず聞こえて音が戻ってきて、ものすごい納得感に包まれていました。

 

結局、僕は今できることをただやればいいんだ。

 

いや、そもそも今できることをやる以外に自分にできることは何もないじゃないか。

 

試合の勝ち負けは今やっていることの結果であって、

 

それはいずれわかることだから考えてもしょうがない。

 

勝てるかどうかはライバルたちの状態にも影響されるからこれも考えてもしょうがない。

 

批判があったり失望を生むかもしれないけれど、

 

これも試合結果に付随することだから考えてもしょうがない。

 

だったら僕は一体何を恐れていたんだろう。

 

なんで自分ばっかりと恨んでいたけど、

 

いいことをしたからいい結果があるわけでもない。

 

悪いことをしたから悪い結果があるわけでもない。

 

何の理由もなくただ出来事が自分の身に降りかかる。

 

起きたことを起きたんだと思って対処すればいいし、

 

それ以外に何もやりようがない。

 

そもそも何が良いことで何が悪いことかをああだこうだ勝手に解釈して決めているのが自分の心で

 

それは自分で自分に幻を見せているようなものじゃないか。

 

木が風に吹かれて倒れてもそれは自然の営みでそこに善悪はない。

 

大丈夫。なるようになるし、なるようにしかならない。

 

やるだけやってだめだったら、ああそうかと思ってまた生きていくだけなんだ。

 

そうやって今、今、今を繰り返すだけなんだ。

 

たまたまその後の日本選手権では優勝し五輪代表に内定しました。

 

けれども、その結果よりも体感を通じて今を生きるということを学んだことが大きかったと思います。

 

それが私の競技人生で学んだ最も大きなことでした。

 

選手の皆さん応援しています。

 

今は一度しかありません。

 

自分らしく悔いのないように競技できることを願っています。』

 

 

 

 

 

さて、話題は変わって1枚の写真の紹介。

 

最初に起き上がらせてくれるのは、

 

倒れたときの気持ちがわかる人。

 

1人、、「1962 S AO Nag 1 The first to help you up are the ones who know how it feels to fall down.」というテキストの画像のようです

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